黒石市の歴史

黒石藩の歴史

黒石の地名が記録に残っているものとして最も古いのは、興国四年(1343年)6月20日付の工藤右衛門尉貞行の妻しれん尼が書いた書状がある。

    
つがるいなかのこをり、くろいしごう、おなしき、まん所しきの事
右所は、くどううえもんのぜうさだゆきさうだいの所りようたるあいだ、しれん、かのごけとしてそうでん(中略)ちゃくそんりきじゅ丸にゆづりあたう也(後略)

とある。

工藤右衛門尉貞行は、鎌倉幕府から派遣されていた地頭で、黒石郷を支配していた。
貞行の娘かいず御前は、八戸の領主南部信政に嫁いでいたが、貞行が没してから、貞行の妻しれん尼が、領地をかいず御前の子力寿丸(南部信光)に与えた。
興国四年の文書は、この時の譲り渡し証文である。

したがって、黒石郷の地名は、興国四年よりもっと以前から使用されていたことがわかる。
黒石の地名の起源については、いまもってはっきりしないが、蝦夷の住む土地を久慈須(クジシ)、国栖(クニス)と称したことから、国栖が『くるし』、さらに、『くろいし』に転化したのではないかというのが、大かたの一致した見方である。

さて、しれん尼が黒石の郷を孫の南部信光に与えてから、黒石の郷は南部の所領になるのだが、その後黒石郷は、同じ南部の家臣浅瀬石城主千徳家の領有と変る。

そして慶長二年(1597年)、南部の一族でありながら、南部に反旗を翻した大浦為信に、浅瀬石城の千徳政康が亡ぼされると、津軽は為信に一統されて、黒石は為信の支配下におかれたのである。
為信が津軽を一統してから四十年後の明歴二年(1656年)、為信の孫、津軽十郎佐衛門信英(ノブフサ)が、黒石に五千石で分地した。(津軽藩主信政の後見人)

黒石五千石といっても、本家は一ヶ所にまとめて領地をくれたのではなく、黒石二千石、平内一千石、上州勢田郡に二千石と、三ヶ所に分けて与えた。
黒石二千石とは、現在の黒石市の地域から、浅瀬石、追子ノ木、六郷、中郷の一部を除いたもの。
その頃の黒石は、境松を中心に黒石城があったのだが、信英は旧黒石小学校(現市民文化会館)の場所を陣屋とし、その周辺に町造りをはじめた。それが今日の黒石の市街地である。

完文三年(1663年)信英の長子信敏(ノブトシ)が二代目を継いだが、この時信敏は弟信純(ノブズミ)黒石分家初代。(馬場尻ほか三ヵ村に500石、上州勢田郡に500石、合計千石を与えた。)

ところが、信純が病で亡くなったので、信敏の二男信俗(ノブヨ)を信純の後継ぎにしたのだが、信俗も若年で亡くなり、一千石は幕府に没収された。
それで黒石の五千石は四千石に減った。

だが、それにもかかわらず、黒石は裕福だったといわれている。
というのも、分家当時から黒石の実収は一万石を超えていたこと、第二は商業政策がよろしきを得て町が繁栄したことにあった。

藩祖信英は河南の農民を黒石に呼び寄せるために、黒石と尾上を結ぶ道路をつくらせた。
何せ黒石領は人口が少なく、弘前領に取り囲まれているので、弘前領の農民が黒石に来てくれないことにはまちの発展がありえなかった。

特に黒石の発展に功績があったのは天明年間(1782~1788年)から家老を勤めた境形右衛門で、春の「馬乗り」、夏の「ねぷた」、「盆踊り」を奨励して、近郷の弘前領から人を集める方法を講じた。
春になると馬乗り競走に出場する騎手と見物人が、北は浪岡の方から、南は大光寺、尾崎の方面から集まってきた。
ネプタ時になれば、高さ五~六間のネプタが街をねり歩き、遠くの村々からも眺めることが出来た。
すべてこれらの行事が領主の奨励にかかわるのだから、行事が年々盛んになるのは当然であった。

しかし、黒石が弘前領の農民を町に吸収して、商業の取引を活発にするのを、弘前藩はいつまでも黙ってみていなかった。
黒石に馬乗りがあると、弘前藩では町の人口に縄を張ることを黒石に命じて、馬が通れないよう妨害したり、ある時は経済封鎖で黒石を困らせるにかかったこともあったが、家老の境形右衛門は、馬が楽に通れる高さに縄を張って、本藩の命令に従うようにみせながらも、馬乗りに支障を来させなかったし、また、経済封鎖は黒石よりも、卸問屋の弘前の商人が困って、弘前の方で先に手をあげるしまつで、長続きしなかった。
黒石藩の施策をみると、いかに小藩として生きる道を見出すかに専念している跡がうかがわれる。

黒石は文化六年(1805年)4月5日。八代親足(チカタリ)の代に、四千石から一万石に高直りになって大名の列に加わり、参勤交代をするようになった。この時から黒石を藩と呼ぶようになる。
黒石が四千石から一万石になるには、不足分の六千石を弘前藩で蔵米をもってあてた。これはすべて本家弘前藩の助力によるものである。

当時弘前藩は津軽寧親で、相馬大作にねらわれた史上有名な殿様である。寧親は本当は黒石の六代目をついだ黒石の殿様であったが、本藩に後継ぎがなくて、長男に黒石を継がせ、本藩をついだ。
だから、寧親としては、黒石を粗末に出来ない義理があった。
まして寧親の代に、弘前は四万七千石から十万石に高直りしたので、寧親はすぐその後で黒石の高直りに意をそそいだものらしい。
本藩の弘前が十万石になったのは、幕府から蝦夷出兵の功労が認められたからであった。

それにくらべると、小禄の黒石は、蝦夷出兵の義務も負わせられず、泰平の中に過ごしてきたのに、一万石の大名になることが出来たのは、全く寧親の尽力の賜である。
けれども大名になって、参勤交代をするようになってからは、黒石藩の財政っも次第に苦しくなっていった。
賃借無差別令で、殿様が商人から借りた金を帳消しにしたのも、その現れの一つである。

この頃から藩は藩の財政問題を解消するために商人を侍に取り立てたりして、切り抜け策を講じている。
こうして幕末に近くなるのだが、明治維新では黒石藩が新政府に加担して、函館戦争に参加することになる。
この函館戦争こそ、黒石藩二百年の歴史の中で、ただ一度の戦争であった。津軽藩は奥羽連盟を脱退し、官軍方になったので、幸先のよい時代を迎えることになった。

唄と踊りの祭典「黒石よされ」より抜粋 平成10年10月 発行

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