黒石ゆかりの四大作曲家歌碑顕彰碑
所在地 | 黒石市中町かぐじ広場 |
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最寄駐車場 | 有 こみせ駅駐車場 |
四大作曲家の歌謡顕彰碑は
「武田節、父よあなたは強かった」を作曲した明本京静氏
「すみだ川」「網走番外地」を作曲した山田栄一氏
美空ひばりのヒット曲を生み出した上原げんと氏
石原裕次郎のヒット曲を生み出した上原賢六氏
いずれも黒石市ゆかりの作曲家です。
戦前戦後を通じて、誰もが愛唱した思い出の歌、心の歌を作曲して、
日本の歌謡界に大きな功績を残した四人の方々を、郷土の誇りとして業績を後生に残す為に歌碑顕彰碑を建立しました。
また、近くには、上原兄弟の作品紹介や幼少時代からの写真を始め、様々な愛用品等を展示している「四大作曲家私設資料館」もあります。
4大作曲家
山田栄一
山田栄一(本名:山田栄)
1906年~1995年(明治39年~平成7年)
生家は黒石市株梗木横丁
弘前の慈善館(映画館)の楽士を振り出しに18歳で青森の文芸館(映画館)の楽長となる。
のちに札幌の五番館(映画館)の指揮者を経て21歳で上京、ポリドールレコードの専属作曲家となり東海林太郎と組んで歌謡界のトップに立つ戦後、東映に入社し、劇映画のテーマ音楽に手腕を振るう特に、時代劇の音楽作曲で戦後の一時代を築く。
主な作品
すみだ川・網走番外地・上海の街角で・南京だより・街の流れ鳥さくら音頭・弥次喜多行進曲・三味線やくざなど
明本京静
明本京静(本名:明本教成)
1905年~1972年(明治38年~昭和47年)
生家は黒石市の円覚寺
東大工学部中退後、近衛秀麿に師事し新交響楽団(N響の前身)でベートーベンの「第九」のテナー独唱者になる作詞・作曲家として活躍。
主な経歴
日本文化協会理事・指揮音楽校長・職場を明るくする運動センター所長
アジア核禁止会議常任理事・青少年国民会議中央委員・若いともし火の会顧問
主な作品
武田節・父よあなたは強かった・皇国の母・学徒動員の歌・あゝ紅の血は燃える
風はそよ風・青森県民歌・黒石中学校校歌・黒石高校校歌・黒石小唄など
上原げんと
上原げんと(本名:上原治左衛門)
1914年~1965年(大正3年~昭和40年)
母親は黒石市中町「さしに」の長女
木造中学校卒業後、木造・五所川原・黒石でギター・マンドリンアンサンブルを組織
自作の曲で発表会を開く。
昭和11年、黒石より上京し、演歌師・サーカス・チンドン屋等をしながら放浪の全国一周の旅に出る。
その後、歌手の岡晴夫とコンビを組み、キングレコードから「国境の春」で作曲家としてデビューし岡晴夫の全盛時代の作品の大半を作曲する。
戦後、作詞家の石本美由紀と組み、コロムビアレコードで多くの歌手を育てる。
主な作品
港町十三番地・東京のバスガール・上海の花売娘・東京の花売娘・港シャンソン・逢いたかったぜ・伊豆の左太郎・流れの旅路・バラを召しませ・アンコ可愛いや・私は街の子・ひばりの花売娘・青森娘・黒石音頭など
ヒットさせた主な歌手
岡晴夫・美空ひばり・コロムビアローズ・高田浩吉・神戸一郎・小畑実・瀬川伸・津村謙・若原一郎・島倉千代子・五木ひろしなど
上原賢六
上原賢六(本名:同じ)
1924年~1980年(大正13年~昭和55年)
実兄は作曲家の上原げんと
尋常小学校4年の春、黒石小学校へ転校する
後に上京し、東洋音楽学校へ入学
黒石の南津軽郡地方事務所に勤務するかたわら福士四郎らと顧問団を結成する。
昭和20年、現役兵として満州へ出征し、シベリア抑留後昭和23年上京し、兄げんとのもとで作曲を学ぶ。
作曲家船村徹らとバンドのアルバイトをしながら昭和28年テイチクレコード専属となる。
石原裕次郎と組み、多くのヒット曲を生み出す。
主な作品
俺は待ってるぜ・錆びたナイフ・赤いハンカチ・風速40米・夕陽の丘・草笛を吹こうよ・地獄花・アカシヤは枯れた・あしたの虹など