文学碑(文学の森)

「文学の森」黒森山浄仙寺には、様々な郷土の文人の文学碑があります。

丹羽洋岳(出生地:黒石市板留)
青荷温泉を開発した歌人。啄木、牧水とも交遊があった人。県歌壇の草創期からの人。
牧水直伝の朗詠の最後の人ともいわれた。青森県文化賞受賞者。昭和48年死去。
山寺の庫裡のうしろの栗胡桃
栗鼠にまかせて人影も無し
(昭和37年6月建立)

文学碑1
秋田雨雀(出生地:黒石市前町)
下記の碑の下に分骨してある。毎年5月山桜咲く頃に雨雀外7人の忌祭をする。
ひとさしをわが手のひらに
おしあてて文字を教えし父のなつかし
(昭和37年6月建立)

文学碑2
秋田たき子(出生地:黒石市追子野木)
雨雀夫人。歌人。遺歌集「天高し」。昭和28年死去。
天高し空の深さをおしはかる
静心かも山の上に来て
(昭和41年5月建立)

文学碑3
鳴海要吉(出生地:黒石市前町)
いのちあって迷わぬものはどこにある
あれあのとおり雲さえまよう
(昭和37年6月建立

文学碑4
鳴海完造(出生地:黒石市前町)
ロシア文学の権威者。昭和49年12月死去。
知りたい、知りたい、この世は知りたい
ことばかり、だから私は忙しい
(昭和52年5月建立)

文学碑5
中村海六郎(出生地:黒石市甲裏町)
戦前、渋谷悠蔵、竹内俊吉、中村海六郎は県文壇の三羽烏ともいわれた。
黒石文壇を県下に広しめたリーダーでもあった。
小説家、歌人。将来を惜しまれ35才の若さで 昭和13年死去。
『釈迦牟尼も御堂にありて郭公を
きくかに目をばつむりおはせる』
(昭和40年9月建立)
天内浪史(出生地:黒石市内町)
県詩壇の草創期の人、山蘭、東離の「蘭菊会」の同人。
白鳥省吾主宰の「大 地舎」より詩集「詩車に揺られて」。
遺歌集「草月」県詩壇の重鎮でもあり、奇談の多い人でも有名であった。昭和17年死去。
『世に/さびしさといふものの/あるゆえに/
秋の日ざしに/身も静かなれ/往きかふ人のまれなる/
野のみちのべに/紫の花/菊の花/ようも咲いたぞ』
(昭和40年9月建立)
長谷川闇五郎(出生地:黒石市上町)
無欲の悴人でもあった。昭和25年死去。
午後1より浪史、海六郎の追悼会催す
雨雀、南窓、秀緒、野呂松、福士一郎 (中略)其の他遺族10数名集る(下略)
闇五郎、都々逸川柳の号。黒石で日刊 新聞の創始者。
黒石文壇のよき協力者であった
(昭和40年9月建立)
佐藤雨山(出生地:黒石市前町)
考古学、植物学、郷土史、多才な人で青少年の熱心な教育者でもあった。
著作も多い。詩人。昭和34年死去。
『翡翠をきざんだ/品のよい葉エメラルドのうてな
黄玉をちりばめた美しい可憐の花びら/全く宝石細工の植物だ』
(昭和41年5月建立)
大町桂月(出生地:高知県)
十和田湖を中心に青森県を深く愛し、酒仙でもあった。
碑の歌はかつて中の湯に落書きしたものを板柳の竹浪家に現存されてあるという。
大正14年死去。
『一椀の芋を分かちて君と吾
うき世の外の月を見るかな』
(昭和13年8月建立)